Kヨちゃん。
彼女は、ダウン症という知的障害を持っている。
高校まで養護学校に通っていて、卒業後うちの授産施設
(=障害者への就労支援を行う施設)にやってきた。
彼女と仕事をするようになって、かれこれ4年になる。
Kヨちゃんは、ちっこくて、ぷくぷくしてて、めちゃ可愛い。
わたしは、うちの製パン部のメンバーは基本的にみんな大好きだが、
特にこのKヨちゃんがお気に入りだ。
どんなに仕事が忙しくても、しんどくても、
彼女がいるだけで、なぜか癒されてしまう。
製パン部の大切なムードメーカーだ。
Kヨちゃんはカスタード作りの達人。
4年前は、計量もできない&カスタードをいつも焦がしてしまう、
といった状況だった。
それがいまでは、すべてひとりでパーフェクトにこなす。
彼女が作ったカスタードを使ったパンはどれもとても人気がある。
そのほか、「エピ」という麦の穂の形をしたバケットの成形が得意だ。
以前は、ちょっと目を離すと、鉄板に入りきらないくらい
ひょろ長いパンになってしまうこともしょっちゅうだった。
何度教えても、「あんた、それわざとやってるでしょ?」
と思ってしまうくらい、なかなか直らなかった。
もちろんそのパンは、お店には並ばず、
お昼ごはんとして、いつも私のお腹におさまっていた。
が、いまでは全部同じ形・適度な長さに成形できる。
焼き菓子の計量や包装も、誰よりも早く、正確にこなせるようになった。
もちろんその背景には、職員が何度も何度も、
あの手この手を使ってサポートしてきた、という苦労話もあるのだが、
彼女の意欲や吸収力の高さはすばらしいものがある。
Kヨちゃんの口癖は、「ゆるされる?」。
たまにうっかりぶつかってしまって「ごめんっ!」と謝ると、
にこにこしながら
「ゆるされる?」と、言ってくれる。
あ?、癒される・・・。
それからいつも、「Tさん、だいすき!」とか
「かっこいー」(?!)とかいって、
ぎゅむぎゅむ抱きついてきてくれる。
すると、私の背の半分くらいしかないちっこい彼女を、
私はめいいっぱいぐりぐりして愛情のお返しをする。
愛想がいいもんだから、お客さんにも大人気だ。
でも、同じダウン症のCえちゃんにはライバル意識むんむんで、
露骨ないじわるもする。これはまったくもって、たちが悪い。
また、自分の世界に浸ることも多い。
今でこそなくなったが、以前は仕事終わりに掃除をしてもらっていると、
「わたしはかわいそうなシンデレラ?」
といいながら、しくしく泣いていることもあった。
彼女には申し訳ないが、これにはめちゃくちゃウケた。
最近は、よく彼女の隣にいるであろう誰か(私たちには見えない)と、
ケタケタ笑いながら、すごく楽しそうに話をしている。
いつも幸せそうで、心から仕事を楽しんでいる彼女を見ていると、
忙しさでトゲトゲした心が自然と丸くなる。
私の手で遊んでいるKヨちゃん。
4月から、障害者自立支援法という法律が施行された。
これまで施設で様々な支援を受けてきた障害者は、
一律10%の利用料負担が課せられることになった。
授産施設においては、ただでさえもらえる工賃が安いのに、
もらっている給料よりも多くの利用料を払わなくてはならない、
といった理不尽が生じている。
自立を支援する、という名目の法律であるにも拘わらず、
自立生活を目指してがんばっている多くの障害を持つ人々にとっては
死活問題になってきている。
日本では、知的・身体・精神の障害を持つ人の割合は全国民の約5%、
そして高機能発達障害などの軽度の障害者をも含めると、
国民の約1割がなにかしらの障害を持っている、
といわれている。
しかし、一般的に健常者と言われる私たちは、
日常生活において障害者と接することもなければ、
こうした人々の現状も知らない。
私も、この仕事に携ってなければ、
障害を持った人々と深く接する事はまずなかっただろう。
この背景には、過去に莫大な数の大型入所施設や養護学校を
どかどかと建設し、そこに障害者ばかりを集めてきたという、
歴史がある。
ここ十数年は、日本政府もこの失敗を大いに反省し、
障害者を地域に帰そう、という施策を打ち出し、試みている。
が、一旦障害者のいなくなった社会に、障害者を戻す、
ということは容易なことではない。
特にソフト面において、社会が障害者を受け入れ、
支援できる状況が整っていない。
この点においては、マレーシアはじめアジア諸国は
ある意味進んでいるといえる。
福祉にかけるお金がないからこそ、地域でなんとか障害者を
支援していけるしくみ作りに、地域ぐるみで取り組んでいるからだ。
日本の教育の場では、統合教育や包み込み教育といった、
障害児達を、養護学校ではなく、一般学校の中で、
それぞれの能力や状況に応じた教育・支援を行なっていこう
という取り組みが、最近では増えてきている。
障害児たちもがあたりまえに地域で学校生活を送ることよって、
なによりも健常の子供達が、障害について、そして障害児たちが
必要としている支援について、自然と学ぶ事ができる。
そうした実践が、どこの地域でも行なわれる事によって、
将来社会人になったときも、普通に障害者や高齢者などを
受け入れられる社会が形成されるのではないだろうか。
障害者に限らず、人は元気な人ばかりではない。
だれもがみな弱い部分を持ち、得手不得手があり、
互いのそれを理解しあい、認め合い、
支えあって生きていく必要がある。
これは偽善ではなく、人として、あたりまえの事なのだ、
と私は信じる。
ある意味、日常生活において障害を持った人々と接する機会が皆無だ、
という今の社会は異常な社会なのではないか、とさえ私は感じている。
Kヨちゃんの話に戻る。
彼女のもつ特徴に対する理解と、適切な支援さえあれば、
彼女は一般企業で就労できる、と私は本気で考えている。
彼女だけではなく、他の利用者たちにも当てはまることだ。
障害者ばかり集められた異質な授産施設という場所で、
安い工賃しかもらえない今の状況に縛り付けていてはいけない。
もちろん本人や保護者の意思が最優先だが、
彼らの持っているものを活かせる場所を開拓し、
少しでも多くの収入を得て、親なき後も施設の中ではなく、
地域で自活できるような基盤をなんとか作っていきたい。
しかしこのご時世、障害者にとって一般就労は、とにかく難関だ。
仕事の出来云々よりも、職場での人間関係が最大のネックとなる。
そのため、うちの施設独自で障害者の雇用を生み出していく、
という新たな事業を始める。
具体的な解決にはならないかもしれないが、
とにかく前に進まなくてはならない。
より多くの可能性や選択肢を提示していくこと、
障害を持った人々が、周りの人々から必要な支援を受けながら
暮らしていけるよう、地域社会の理解を促していくこと、
これが最大の課題だ。
課題は山積みだ。
なのに、目の前の業務をこなすのにいっぱいいっぱいになってる
日々に、ただ焦るばかりだ。
テニスだってしたいし、休みにはしっかり遊びたいとも思う。
福祉は、結果が出るまでにとても時間のかかるものだ
ということは分っている。
それでも、具体的な目に見える結果が出せていない自分に、
やっぱり腹が立ったりもする。
彼女は、ダウン症という知的障害を持っている。
高校まで養護学校に通っていて、卒業後うちの授産施設
(=障害者への就労支援を行う施設)にやってきた。
彼女と仕事をするようになって、かれこれ4年になる。
Kヨちゃんは、ちっこくて、ぷくぷくしてて、めちゃ可愛い。
わたしは、うちの製パン部のメンバーは基本的にみんな大好きだが、
特にこのKヨちゃんがお気に入りだ。
どんなに仕事が忙しくても、しんどくても、
彼女がいるだけで、なぜか癒されてしまう。
製パン部の大切なムードメーカーだ。
Kヨちゃんはカスタード作りの達人。
4年前は、計量もできない&カスタードをいつも焦がしてしまう、
といった状況だった。
それがいまでは、すべてひとりでパーフェクトにこなす。
彼女が作ったカスタードを使ったパンはどれもとても人気がある。
そのほか、「エピ」という麦の穂の形をしたバケットの成形が得意だ。
以前は、ちょっと目を離すと、鉄板に入りきらないくらい
ひょろ長いパンになってしまうこともしょっちゅうだった。
何度教えても、「あんた、それわざとやってるでしょ?」
と思ってしまうくらい、なかなか直らなかった。
もちろんそのパンは、お店には並ばず、
お昼ごはんとして、いつも私のお腹におさまっていた。
が、いまでは全部同じ形・適度な長さに成形できる。
焼き菓子の計量や包装も、誰よりも早く、正確にこなせるようになった。
もちろんその背景には、職員が何度も何度も、
あの手この手を使ってサポートしてきた、という苦労話もあるのだが、
彼女の意欲や吸収力の高さはすばらしいものがある。
Kヨちゃんの口癖は、「ゆるされる?」。
たまにうっかりぶつかってしまって「ごめんっ!」と謝ると、
にこにこしながら
「ゆるされる?」と、言ってくれる。
あ?、癒される・・・。
それからいつも、「Tさん、だいすき!」とか
「かっこいー」(?!)とかいって、
ぎゅむぎゅむ抱きついてきてくれる。
すると、私の背の半分くらいしかないちっこい彼女を、
私はめいいっぱいぐりぐりして愛情のお返しをする。
愛想がいいもんだから、お客さんにも大人気だ。
でも、同じダウン症のCえちゃんにはライバル意識むんむんで、
露骨ないじわるもする。これはまったくもって、たちが悪い。
また、自分の世界に浸ることも多い。
今でこそなくなったが、以前は仕事終わりに掃除をしてもらっていると、
「わたしはかわいそうなシンデレラ?」
といいながら、しくしく泣いていることもあった。
彼女には申し訳ないが、これにはめちゃくちゃウケた。
最近は、よく彼女の隣にいるであろう誰か(私たちには見えない)と、
ケタケタ笑いながら、すごく楽しそうに話をしている。
いつも幸せそうで、心から仕事を楽しんでいる彼女を見ていると、
忙しさでトゲトゲした心が自然と丸くなる。
私の手で遊んでいるKヨちゃん。
4月から、障害者自立支援法という法律が施行された。
これまで施設で様々な支援を受けてきた障害者は、
一律10%の利用料負担が課せられることになった。
授産施設においては、ただでさえもらえる工賃が安いのに、
もらっている給料よりも多くの利用料を払わなくてはならない、
といった理不尽が生じている。
自立を支援する、という名目の法律であるにも拘わらず、
自立生活を目指してがんばっている多くの障害を持つ人々にとっては
死活問題になってきている。
日本では、知的・身体・精神の障害を持つ人の割合は全国民の約5%、
そして高機能発達障害などの軽度の障害者をも含めると、
国民の約1割がなにかしらの障害を持っている、
といわれている。
しかし、一般的に健常者と言われる私たちは、
日常生活において障害者と接することもなければ、
こうした人々の現状も知らない。
私も、この仕事に携ってなければ、
障害を持った人々と深く接する事はまずなかっただろう。
この背景には、過去に莫大な数の大型入所施設や養護学校を
どかどかと建設し、そこに障害者ばかりを集めてきたという、
歴史がある。
ここ十数年は、日本政府もこの失敗を大いに反省し、
障害者を地域に帰そう、という施策を打ち出し、試みている。
が、一旦障害者のいなくなった社会に、障害者を戻す、
ということは容易なことではない。
特にソフト面において、社会が障害者を受け入れ、
支援できる状況が整っていない。
この点においては、マレーシアはじめアジア諸国は
ある意味進んでいるといえる。
福祉にかけるお金がないからこそ、地域でなんとか障害者を
支援していけるしくみ作りに、地域ぐるみで取り組んでいるからだ。
日本の教育の場では、統合教育や包み込み教育といった、
障害児達を、養護学校ではなく、一般学校の中で、
それぞれの能力や状況に応じた教育・支援を行なっていこう
という取り組みが、最近では増えてきている。
障害児たちもがあたりまえに地域で学校生活を送ることよって、
なによりも健常の子供達が、障害について、そして障害児たちが
必要としている支援について、自然と学ぶ事ができる。
そうした実践が、どこの地域でも行なわれる事によって、
将来社会人になったときも、普通に障害者や高齢者などを
受け入れられる社会が形成されるのではないだろうか。
障害者に限らず、人は元気な人ばかりではない。
だれもがみな弱い部分を持ち、得手不得手があり、
互いのそれを理解しあい、認め合い、
支えあって生きていく必要がある。
これは偽善ではなく、人として、あたりまえの事なのだ、
と私は信じる。
ある意味、日常生活において障害を持った人々と接する機会が皆無だ、
という今の社会は異常な社会なのではないか、とさえ私は感じている。
Kヨちゃんの話に戻る。
彼女のもつ特徴に対する理解と、適切な支援さえあれば、
彼女は一般企業で就労できる、と私は本気で考えている。
彼女だけではなく、他の利用者たちにも当てはまることだ。
障害者ばかり集められた異質な授産施設という場所で、
安い工賃しかもらえない今の状況に縛り付けていてはいけない。
もちろん本人や保護者の意思が最優先だが、
彼らの持っているものを活かせる場所を開拓し、
少しでも多くの収入を得て、親なき後も施設の中ではなく、
地域で自活できるような基盤をなんとか作っていきたい。
しかしこのご時世、障害者にとって一般就労は、とにかく難関だ。
仕事の出来云々よりも、職場での人間関係が最大のネックとなる。
そのため、うちの施設独自で障害者の雇用を生み出していく、
という新たな事業を始める。
具体的な解決にはならないかもしれないが、
とにかく前に進まなくてはならない。
より多くの可能性や選択肢を提示していくこと、
障害を持った人々が、周りの人々から必要な支援を受けながら
暮らしていけるよう、地域社会の理解を促していくこと、
これが最大の課題だ。
課題は山積みだ。
なのに、目の前の業務をこなすのにいっぱいいっぱいになってる
日々に、ただ焦るばかりだ。
テニスだってしたいし、休みにはしっかり遊びたいとも思う。
福祉は、結果が出るまでにとても時間のかかるものだ
ということは分っている。
それでも、具体的な目に見える結果が出せていない自分に、
やっぱり腹が立ったりもする。